社会現象となった「愛人バンク」

社会風俗・民俗、放浪芸に造詣が深い、朝日新聞編集委員の小泉信一が、正統な歴史書に出てこない昭和史を大衆の視点からひもとく。今回は「愛人バンク」80年代初頭に一世を風靡した“男女交際仲介業”だ20代の女性オーナーはテレビ番組などでもてはやされ、ちょっとした有名人だった。さらに当時すでに「援助交際」という言葉が存在していた

*  *  *
「愛人」という言葉には背徳のにおいがする。それをビジネスと割り切ったのが、1980年代前半に出現した男女交際仲介業「愛人バンク 夕ぐれ族」である。最盛期には全国から約5千人もの男女が会員になったというのだから、大きな社会現象だった

高度成長から高度消費社会へと移り変わろうとしていた時代である。コピーライターの糸井重里さんが考案した百貨店のキャッチコピー「おいしい生活。」が大衆の心をつかみ、ブランド品があふれた。都会の風景は変わりつつあった。「愛人バンク 夕ぐれ族」を取材した風俗ライターの伊藤裕作さん(66)は語る。

「1982(昭和57)年の暮れ、夕ぐれ族の女性オーナーに会いました。そのときは『愛人バンケット(宴会、祝宴の意)機関 夕ぐれ族』と称していました。なんだか語呂が悪く、ダサイ。『愛人バンク』にしてはどうかと僕が提案したのです」

「筒見待子」と名乗る(後に偽名と判明)女性オーナーは、小冊子を持参していたそうだ。そこには女性からのこんなメッセージが書かれていた。

<はじめまして。私、22歳。女子大生。155センチ、48キロ。バストに自信があります。35~55歳ぐらいのステキなおじさま、物心両面で私を成長させてください>
<私、21歳。美術学校の学生。仕送りが少なく苦労しています。週1回ぐらいのデートをしてくださる経済的余裕のある方との援助交際を望んでいます>

「援助交際」という言葉がすでに使われていたことに驚くが、伊藤さんが発案した「愛人バンク」という名称は言い得て妙である。この業界は、生き残りをかけてあの手この手を考え、それまでの常識では考えられないものが出てくるからおもしろい。

どんな仕組みだったのか。伊藤さんの近著『愛人バンクとその時代』(人間社文庫)を読むとよーく分かる。「自由恋愛の紹介窓口」を宣伝文句に入会金は男性会員20万円、女性会員は5万円(0円や10万円の場合も)だった。男性会員1人に女性会員1人を紹介するという見合いがセットされ、互いが気に入れば当事者同士で月単位の手当を決め、あとは自由にお付き合いを──というのである

愛人といえばドロドロとしたイメージがつきまとっていたが、『夕ぐれ族』という都会的でおしゃれなネーミングにひかれたのか、大学教授や弁護士、医者もいた。いわゆるインテリ層が多かった」(伊藤さん)

「愛人バンク 夕ぐれ族」は、東京の銀座に事務所を構え、83(昭和58)年の最盛期には入会金だけでも数億円の収益になったという。「素人に出会える」というユニークなシステムが当時の人の興味を引いたのだろう。ホテトル、マントル、デート喫茶といった既存の風俗業は飽きられつつあった時代だった。

筒見自身も脚光を浴びた。「港区出身で有名大学の卒業生」「年齢22歳」と自称し、あどけない顔がテレビ受けもした。本来なら、この手の風俗ネタには腰が引けてしまう朝や昼の主婦向けワイドショーにも出演。「タモリ倶楽部」「11PM」「トゥナイト」といった深夜番組にも引っ張りだこになった。

筒見はインタビューでこんなことを言っていた。

「私と同世代の女性たちは、6畳一間で共同トイレの生活は嫌なんです」

時代は「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根康弘政権下。明らかに都会の風景も変わりつつあった。東京ディズニーランドが千葉・浦安に開園したのが83年。任天堂が家庭用テレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売したのもこの年である。NHK連続テレビ小説「おしん」が平均視聴率52.6%を記録する一方、民放では「金曜日の妻たちへ」「ふぞろいの林檎たち」が話題になる。個人の価値観や感性を堂々と主張できる時代が訪れたのだ。

「おいしい生活」をするため、お金のある男性から援助を受ける正当性を堂々と主張する若い女性や、アルバイト感覚で体を売ることにさほど抵抗を感じない女性も現れた。伊藤さんが当時、そうした女性100人にアンケートをしたところ、一番多かったのは20歳で18人。以下19歳と21歳がそれぞれ15人だったという

※週刊朝日 2016年4月8日号より抜粋

dot. 2016.04.02

 images-3-48-150x150images

【関連する記事】