着々と進む大地の改造→東北沿岸部

東日本大震災・津波の発災から5年。このコラムでも折に触れて紹介してきたように、筆者は自らクルマを走らせて現地の道を走り、被災から復興へと移り変わる状況を確かめる機会を作ってきた(参考「4年目の被災地、コミュニティ再生につながる交通インフラを」)。年に何度かという頻度であり、点(場所・人)と線(道路)をつなぐ体験であって、決して網羅的な取材とはいえないけれども、それでも見えてくるものは少なくない。

筆者が車で走った東北沿岸部の写真はこちら(JBpressのサイトに飛びます)

今冬は、本州太平洋岸の北端ともいえる青森の大間から南下するルートをたどってみた。既出のレポートと重複する部分も多いけれど、昨年までの走行観察と比較しながら、今の現地では「何が進んでいるのか」あるいは「進んでいないのか」を整理してみたい。

■ 5年でダンプカーの積荷はどう変化したか

この5年間、この地域を「縦走」すると、クルマがとても汚れる。細かなパウダー状になった土が道とその周囲を覆うように広がっているからだ。

その土ぼこりがどのようにして生じたものなのか、それが年々変化してきている。2012~2013年は、被災現場の瓦礫を取り除き処分場に運ぶダンプカーが連なって走ることで、道を覆う泥や砕けた建材が埃として舞い上がり、視界をふさぐほどだった。

2014年に入る頃からは、内陸側の山肌が削り取られ、そこから狭く曲がりくねった山道を通って海辺まで土砂を運ぶ車群が幹線道路に集まって連なるようになった。最大の津波でも大丈夫な高さまで地盤をかさ上げする大土木工事のための土砂移送であるその輸送の中で土はこぼれ、空中に舞い上がる

 海岸沿いに台地を造成する土のために、山が削られる。また、そこに打ち込む杭などのために山林も大量に伐採されている。海に面したエリアだけでなく、その背後に広がる山地まで人の手による「大地改造」が進んでいるのである

それが今年(2016年)になると、とくに宮城から岩手の沿岸を南北に縦貫する国道45号線とその周辺では、ダンプカーに貼られた立ち入り工事現場の表示は、一気に建設が加速する「三陸沿岸道路」関連ばかりだった。これはかさ上げ台地のための土砂移送は一段落したことを意味する。

とはいえ、土を運んで積み上げれば、かさ上げ台地ができるわけではない。土壌を安定させる薬剤などを混ぜて台地状に積んで待ち、再び混ぜて積み直すことを何度か繰り返してから、地盤を形作る層と外側の斜面を保持する構造を組み立てつつ造成を進める、というプロセスが待っている。

「奇跡の一本松」が話題になり、被災から復興への象徴的地域となったいる陸前高田では、巨大ベルトコンベアが1年半の稼働でその役目を終え、2015年10月から解体が始まった。そのベルトコンベアは、周囲の山肌を削った大量の土砂を、海に面した平地に運ぶために作られたものである。今は一部の基礎構造体と、モニュメントの形で残される「吊り橋」の一部が残っているだけだ。陸前高田の復興工事に投じられるコストは1200億円、その約1割がこの土砂移送コンベアの建設に使われたと報じられている

この地域の中で、切り崩し、移送した土の量は1100万立方メートルを越える。元は美しい松林の向こうに太平洋が広がり、東北地方随一の海水浴場としても知られた陸前高田だが、その扇状地は今、土の平原となり、そこに四角い台形ピラミッドを思わせる盛り土がいくつも連なっている。これが新たな街の基礎構造体に変わるのにはまだ年単位の時間が必要だ。

■ 今なお避難生活の人は東北地方だけで13万人

内陸のプレハブ仮設住宅に生活の場を移している被災者の方々が、元の場所に戻ってこられるのはそのさらに後で、そこからようやく生活の再建が始まることになる

住宅の再建は、山を削って台地面を造成し、新たな宅地を作るところのほうが進行が少し早い。今回、仮設住宅訪問の中で知り合った家族が、そうした造成地に新しい家を建てている現地を訪れた。三陸沿岸を走ると次々に現れる小さな湾に面して肩を寄せ合うように並んでいた家を失い、背後の切り立った山地を切り欠いたところに「住み替える」事例である。

「やっと・・・」なのだが、その実情はなかなか大変なことを伝わってきた。宅地は用意される。しかし建築にかかる費用は自ら準備しなければならない。ちょうど就職する子供の1人が地元で生きることを決めたのでローンが組めたけれど、「これからまた大変です」と、でも明るく笑って語ってくれた。

しかし、そうした後継者がおらず、高齢を理由に建築資金の借り入れが難しい人々も多い。彼らは公営の復興住宅が建設され、入居が可能になるのを待っている。マンション型の復興公営住宅が完成して入居が始まったことがニュースに取り上げられるようになったが、被災地全体でみればごく一部にすぎない。

復興庁がこの2月末に発表したデータによれば、仮設住宅に、そして既存の住宅で“避難”生活を続けている人々は、東北地方だけでもいまだに約13万人。1年前と比べて約5万人減、半年前に比べると約2万人減と徐々に減ってきてはいるが、その全てが「被災前に住んでいた土地」に戻れてはいないはずだ。とくに人造台地上に造成される新しい宅地に新居が建てられる時を待つ人々は、まだ2年、3年の「仮設暮らし」が続くのである。

「向こう三軒両隣」どころか、同じ列、向かい側、背面に並ぶプレハブ住宅群からは生活の中で発せられる音が薄い壁板1枚を透して全て聞こえてくるそうで、そうした仮設住宅に暮らすことにやはりストレスはあったという。

しかし、知らない同士が集まった中から新しいコミュニティが形作られていったことや、そのつながりの密度の濃さ、親密さについても、この数年の間に訪れた各所で聞き知ることができた

避難生活が終わると、一戸建てへ、あるいは集合住宅へ、また分かれてゆくことになるわけだが、そこで再び生活を組み立てるするのはそう簡単なことではない。高齢者が中高層ビル型のマンションに分かれ、独居する場合は、人と人とのふれあいは極端に希薄になる。さらに生活の場全体を作り直す中で、日常の買い物だけでもクルマが欠かせない状況をどうするか。その具体的なプランはほとんど見られない

街をそっくり作り直しているところでは、まず巨大土木工事、そして図面上での街区設計を軸に“復興”が進められてきた。さすがに自治体や、その現場に関わるJV(共同企業体)などの中では、「コミュニティづくり」や、そこでの人と物の流れを作る“毛細血管”、すなわち「個の移動」をどう作るかのプランニングについて、ようやく目が向き始めてきているようだ。

 10メートルか、場所によってはそれ以上もの高さを持つ四角い台地が連なり、各々に住宅地、商業地、学校や公的機関、基幹交通などを分かれて“載せる”。それぞれの台地の中と、その側壁斜面が作る直線の「谷」によって切り離されている台地相互の間を、個人個人がどう移動して生活し、人々のつながりを作ってゆくのか。その「個の移動」のニーズの把握と、それに即したプランニングを組み立てる。

さらにそうした町と集落が連なる地域全体をどうつなぐか。エリア全体からミクロレベル(自宅の周り、など)まで有機的につながる交通ネットワークをつくり上げてこそ、“地域の再生”が、大災害を乗り越えて前に進む形で実現される。

これに着手し、実現に動くタイミングは今をおいてない。私のネットワークの中にも「交通」の専門家たちを現地に導いて、プロフェッショナルとしての知見をフルに活用してもらう機会を作ろうと考えている。

■ 超高防潮堤の建設は拙速だった?

復興計画の中で進行している大規模土木工事は「かさ上げ」だけではない。巨大津波を遮(さえぎ)るべく建設される「防潮堤」も、今は各所で現物が姿を現しつつある。

一見したところ設計施工担当によって内部の構造にはいくつか異なるパターンがあったが、いずれにしてもコンクリートの外壁を最大で15メートルの高さにまで立ち上げようとしている

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 しかし、どれも基本構造として、地中深くまで伸びた基礎を持つものではないということは、防潮堤と同じほどの高さで押し寄せる津波を受けた時、防潮堤の外面に加わる海水の運動エネルギーによって、堤全体が倒れようとするモーメント(偶力、回転方向の力)が発生するが、それを受け止められる構造体だとは言い難い

復興計画の中で防潮堤の建設を諦めた地区もあるが、現地の人々がそう判断したのは「専門家によれば“最大規模の津波を受け止めるには、防潮堤の基部を高さの何倍にも広げた緩い台形断面にする必要がある”のだが、それだけの土地を防潮堤が占めたら街がなくなってしまう」という理由だった、と伝えた報道があった

つまり津波を受け止めようとすれば、力学、工学の基本からして、深く堅固な基礎構造を作るか、断面全体を広げるかのどちらかしかないたとえ長大な堤を築いても、今回の震災・津波で町全体を取り巻く形の防潮堤が役をなさなかった宮古市田老地区のように、1カ所でも決壊すれば津波や洪水に曝されてしまう。それ以前に、4階建てビルが延々と連なるような巨大壁によって海と遮断されると、何百年にもわたって海とともにあった暮らしを変えてしまうことになる

そこまでを考え、工学の原理原則まで理解した上で、超高防潮堤建設を選ぶかどうか。被災からさしたる時を置かず茫然たる状況にある人々にその判断を求めるのは拙速に過ぎたのではないだろうか

それ以前に、再建に向けて提示された発想そのものが現地の生活やその背景を掘り下げることをしないまま机上で考えた皮相的思考の産物だったのではないか。これは防潮堤だけでなく、「高台移転」「台地造成」などの「復興計画」全般に共通することだ。

しかし、それがここまで進んでしまった今、そこにより良い生活を生み出すプランを考え、実体化するしかない。その多くは、日本全体に広がる社会の“老化”にどう対応してゆくかのモデルケースとなるはずだ

■ “復興”の内容はまだら模様

こうして「点と線」を結ぶ形で被災地を走ってみると、“復興”の事業内容とその規模が“まだら模様”になっていることが、今年は今まで以上に実感された。

三陸地方の入り組んだ海岸地帯を行くと、宮古、釜石、大船渡、気仙沼、女川、石巻と、地域の核となってきた市街はそれぞれに営みを続けながらの再建が続いている。一方、その間に点在した小湾に面し、津波で壊滅に近い被害を受けた町々の再建に向けた工事の規模と内容は一様ではない。

さらに南下して宮城県南部から福島県にかけての沿岸部は、平坦な海岸一体が根こそぎ破壊された場所が連なる。三陸のリアス式海岸と違って、この平地に巨大土木工事で新しい生活の場を築くことは困難であろう。よって内陸移転が基本となり、海岸線はいまだ被災の状況を残したままのところが多い。

そして福島第一原発に近づくと、常磐自動車道の上からであっても人気が急に消えるのが分かる。人家に灯がなかったり、農地に雑木・雑草が多かったりすることが、「暮らし」の気配を失わせているのである

両角 岳彦

JBpress  2016.03.16

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