侮るな!胃の中で真価を発揮する日の丸弁当

梅干を食べている人の顔は、梅干と同じようにしわくちゃだ。食べるたびにしかめ面になりながらも、私たちは梅干をよく食べる。弁当箱を開ければ、白いご飯の真ん中には梅干がぽつん。おにぎりではいまも梅干は定番だ。梅干をさらに干からびさせた「干梅」はコンビニエンスストアですぐ買える。

梅干にまつわる歴史と迫りくる危機とは?(写真付き元記事はこちら)

梅干や梅と聞くと「日本的」という印象をもつ人は多いだろう。英語でも“Japanese Apricot”(日本の杏子)と言うから、海外でもそのように認知されているようだ。では、梅干はどのように日本的になっていったのか。探っていくと、そこにも歴史や経緯がある。

ところが、いま日本的なものの象徴の1つとなった梅に“危機”が訪れているというニュースがある。実際、梅園などでは大規模な強制伐採を余儀なくされた事例も起きているらしい。日本の梅の木に、何が起きているのだろうか。

今回は「梅干」をテーマに、その歴史と現状を見ていきたい。前篇では、日本人が梅干をどう日本的なものにしていったのか、その歴史をたどってみた。後篇では、いま言われている梅の木の危機とはどういうものかを、梅などの植物の研究をする専門家に尋ねてみたい。

■ 「日本の杏子」でも中国原産説が有力

梅は“Japanese Apricot”とよばれるものの、実は中国原産説が強い。大分県や宮崎県で自生していたとする説もあるが、紀元前に中国から水田耕作の技術をもつ人々が日本に渡ってきたとき、稲とともに長江付近の梅も入ってきたと考えられている

梅からできるのが梅干だ。実を数日間かけて塩漬けしてから天日乾燥させ、梅酢や酒の入った器に漬けこむとで出来上がる。日本では平安中期の村上天皇(926-967)の時代、天台宗の僧だった空也(903-972)が、小梅干を結び昆布とともにお茶に入れ、疫病患者たちに飲ませたという

ただし、梅そのものの伝来が紀元前であることを考えれば、平安時代よりもはるか前から梅干は日本で作られていたに違いない。植物研究家の有岡利幸は『梅干』(法政大学出版)のなかで、808(大同3)年成立の医方書『大同類聚方』に見られる「塩梅(しおうめ)」こそが現代の梅干だという説を唱える。『大同類聚方』で塩梅は“たむし”に付ける薬の1つとされているが、江戸時代のたむしの民間療法でも梅干が使われていることを説の根拠としている

「梅干」という言葉が書物で見られるようになるのは鎌倉時代あたりからだ。鎌倉時代に正玄という人物が著した食事作法書『世俗立要集』には「武家の肴のすえよう」として「梅干」が登場する。中国で「鴆酒(ちんしゅ)」という毒酒を飲んでしまったときの薬として梅干が用いられていたことを引き合いに、武士が万一、毒を盛られた食べものを食べてしまったときには膳に置かれた梅干が頼りになるという旨のことが記されている

■ 赤い梅干の発明:江戸時代のイノベーション

梅干は古くからあった。だが鎌倉時代ごろまでは「梅干」の記述は見られない。このことからすると、梅干はまださほど人々に浸透していなかったと考えられるその理由に考えられるのが塩の希少性だ塩田が発達していなかった時代には塩も貴重品だった。梅干を漬けるために大量の塩を使うことなどもっての外だったのだろう

戦国時代になっても梅干は武将に重宝されていた戦のときは梅干を常備していたのである。食べることもあっただろうが、生水を飲んだときの殺菌や傷の消毒のために、さらには見ているだけ口に唾が溜まることから喉の渇き対策のためにも使ったと伝えられる

その後、江戸時代になると潮の干満を利用した塩田の開発や、鉄の平釜を使った製塩法の普及などで、塩が徐々に庶民のものとなっていった。ついに梅干も庶民の食べものになっていったのである

 もう1つ、江戸時代には梅干の進化史における大きな出来事が起きる。元禄年間(1688-1704)頃、しその葉で着色した「赤い梅干」が発明されたのだ。いまでは、「しそ付きの赤い梅干こそが梅干」というイメージがあるが、それまで梅干といえば白っぽいものだった。1697(元禄10)年、医師の人見必大(1642頃-1701)が著した本草書『本朝食鑑』には「生紫蘇の葉を用いて之を包むものは紅活光潤で、またもって珎とする」とある。「珎」は「珍しい」の意味。しその葉で着色した梅干は、世に出たてだったのだろう

■ 農民の困窮から始まった梅の一大産地

梅干をたくさん作るには、梅の実もたくさん必要だ。そこで梅の栽培の歩みにも目を向けてみたい。

現在の果実用の梅の一大産地といえば、和歌山県だ2位の群馬県や3位の神奈川県の10倍以上の収穫量(2015年産)があり、全国シェアは6割以上になる

江戸時代初期の1620年頃、紀伊田辺藩(いまの和歌山県田辺市)では米に不適の土地柄から、農民が年貢を収めるのに苦労していたという竹や梅などしか育たないような土地の作物は租税対象外だったことから、農民たちは、やせ地や山の斜面を利用して梅を栽培することになった

農民の窮状を考慮してか、藩主だった安藤直次(1554-1635)も梅の栽培を農民に奨励し、保護政策をとった栽培されたのは「やぶ梅」とよばれる果肉の薄い小粒の梅ではあったが、それでも生活に苦しんでいた農民は大切に梅を育てたに違いない。このような経緯で、いまの田辺市やみなべ町を中心に和歌山県では梅の栽培が盛んになっていった。江戸時代中期にもなると、紀州産の梅干が江戸にも送られていったという。日持ちするのも梅干の特徴だ

■ もうひとつの発明品「日の丸弁当」

梅と同じく梅干も最初は中国から伝わってきたと考えられている。だが、その後、しその葉で赤くした梅が誕生したり、消費を支える梅の産地が誕生したりして、梅干は日本独自の食べものになっていったのである

もう1つ、梅干が「日本的」な印象を与える要素として「日の丸弁当」を取り上げなければならない。「日の丸」だから「日本的」ということもあるが、それだけではない。

考古学者の樋口清之は、著書『梅干と日本刀』(祥伝社新書)で、米を主食とし、おかずを副食とするのが、日本の食文化の特徴だと述べる。そして、その例として日の丸弁当を挙げるのだ

大量の白米とひと粒の梅干だが、これが胃の中に入ると、この梅干ひと粒が、九九パーセントの米の酸性を中和し、米のカロリーはほとんどが吸収される役割を果たす

この組み合わせは飽食の現代では太ってしまうと心配になるが、樋口は「必要なカロリーを摂るという意味では、日の丸弁当は、近代的な進んだ知恵」と続ける

日の丸弁当については1904(明治37)年からの日露戦争のころ、陸軍大将となった乃木希典(1849-1912)が好んで食べていたことから、人気に火がついたとされる

いまでは日の丸弁当を常食とする人は見かけなくなった。それでも「日の丸弁当」と聞いてその絵を想像することができる。ご飯食文化のなかで梅干の果たしてきた役割の大きさを感じさせる

■ 健闘している国産の梅に突然の危機が

もともと梅干は保存食ではある。だが、現代になり流通網が発達することで、各地で作られた梅干が各地で食べられるようになった。梅の産地では、和歌山県の「南高」や「小粒南高」、関東の「白加賀」、福島県や岩手県などの「養老」といった品種の登録が進み、梅干のブランド化も進んだ

 近年、梅(果実)の国内生産量は1970年代の約6万トンから、1990年代の12万トンに倍増した。直近の2015年は約9万8000トン。ピークからは減っているが、嫌塩志向が進む中でも安定した消費量を保っているといえるのではないか。自給率も、国内の梅が不作だった2003年には約5割まで落ち込んだが、最近では6~7割を保ち、国産の優位ぶりが見られる

ところが、だ。2009年、日本の梅に突然のように問題が降りかかった。葉や花弁などに斑点が生じる梅の木が次々と見つかるようになったのだ。これは梅の木に広がる感染症で、感染源は「ウメ輪紋ウイルス」とよばれる。有効な対策はこれまでのところ伐採処分しかなく、実際に一連の感染が発覚した東京都青梅市で梅の木3万本以上が伐採されるなどしている。

いま、にわかに、そして静かに進んでいる日本の梅の危機。梅の実や梅干への影響はどうなのだろうか。後篇では、この危機の現状を伝えたい。

(後篇へつづく)

漆原 次郎

JBpress2016.05.13

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