中国建設に2万人の「留用」日本人が協力

今年は終戦から70周年を迎える。太平洋戦争を知っている世代が年々少なくなる一方で、今年は節目の年ということもあり、戦勝国が対日戦勝利を祝う式典等を予定している。また、あの戦争をテーマにした映画やドラマの放映、出版物の刊行なども相次ぎ、我われ日本人にとって例年に増して「終戦」を意識せざるを得ない年となる。この連載では、これまで昭和史の中で「8月15日」という1日で語られがちであった「終戦」について、戦勝国、交戦国などの視座も交えて、その知られざる一面を取り上げていくものである。連載を通して、日本が対外的に今も直面している多くの問題の根源が「終戦」にあるということが理解できるであろう。今回は、終戦後も中国に残留し、中国という新国家建設に協力させられた数多くの日本人がいたことを取り上げる

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海外からの引揚者数 (c)フレッシュ・アップ・スタジオ ※無断転載を禁ず

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終戦後、中国に抑留された日本人技術者たち

 1945年8月9日、長崎に原爆が投下されたその日、満州国境に集結していたソ連軍174万人が一斉に国境を侵犯してなだれ込んだ。1946年まで有効な日ソ中立条約の明らかな違反である

 満州では関東軍が中心になってソ連軍と戦ったが、戦闘が交渉によって終了したのは8月26日で日本がポツダム宣言受諾を世界に公表した8月15日から11日が経っていた戦闘終了後、日本軍はポツダム条約に定められた通り、ソ連軍から武装解除を受け、終戦のプロセスは粛々と進んだしかし、悲劇が始まったのはこの直後である

 ポツダム宣言第9項では「日本軍隊は完全な武装解除の後、故郷に帰り、平和な生産と生活の機会を得ることが許される」と謳われて、帰国が保障されていた。にもかかわらず、ソ連軍は武装解除後の日本兵約57万5000名を捕虜として、極寒のシベリアに強制連行し、鉄道建設や住宅建設などの強制労働に駆り立てたのである

 日本ではこれらのソ連の蛮行を「シベリア抑留」と総称しているが抑留された日本人はシベリアだけではなく、ヨーロッパ地域を含むソ連全土や、さらには中華人民共和国、北朝鮮、モンゴルに散らばった捕虜収容所に入れられ、労働に従事させられている

 この後の1947年から、日ソが国交を回復する1956年まで帰国事業が続けられ厚生労働省の調べでは、47万3000名が帰国を果たしたが、抑留中の死亡者は約5万5000名、病弱のため旧満州や北朝鮮に送り返された者は約4万7000名となっている

 満州へのソ連軍の侵入はもう一つの悲劇を生んだそれは当時中国国内にいた家族も含めて2万人にも上る日本人が「留用日本人」として国内に留め置かれたことだ。「留用」とは一定期間留めて任用する」という意味の中国語だが、これによって中国の国家建設に協力させられた日本人のことは、今ではほとんど忘れ去られている

 ソ連軍は満州侵攻後、軍の施設や満州鉄道、病院などの重要施設とその日本人関係者を中国共産党指揮下の八路軍(正式には東北民主連軍、後に中華人民解放軍第四野戦軍)に引き渡した。当時中国国内では共産党軍と国民党軍が内戦中で、アメリカの強力なバック・アップを受けた国民党軍が満州に侵攻。八路軍はその戦闘準備のため、さまざまな職種の日本人を残留させ協力を強制した

 中国共産党員は日本人家庭を徹底的に調べ上げ、家族構成から職業、学歴までをリストにして、医師と看護婦、工場や鉱山の技師と熟練工、鉄道技術者、科学者、映画人、放送局職員をピックアップ職場ぐるみや個人指名で留用していったのだから、日本人に逃れる術はなく、直接留用された日本人は1万数千人、家族をも含めると2万人を優に超える人数だった

 中国側の資料によると、八路軍に属する医療要員は1600人だったが、留用された日本人の医師・看護婦など専門職員は3000人、このほかに補助要員が2000人いたという

中国空軍創設に協力した林弥一郎少佐

 1946年4月になると、国民党と共産党の協定で、中国大陸にいた日本人101万人が帰国することができたが留用者たちはそのリストに入れてもらえなかった共産党対国民党の内戦が激しさを増し、彼らの技術がますます必要となったからだ

実は、先に挙げたポツダム宣言第9条により、軍人が一般人より優先されて、1945年9月から帰国事業が始められたのだ。一方、一般日本人の引き揚げはポツダム宣言の条項に明記されておらず関係各国の判断に委ねられていたつまり、一般日本人をいつ、どのように送還するのか、もしくは抑留するのかは統治者の裁量次第であった

一般日本人だけでなく技術のある軍人も留用された元関東軍第四錬成飛行隊の林弥一郎(はやしやいちろう)少佐とその部下たちは帰国を許されず、1945年10月、瀋陽(しんよう)の八路軍司令部に呼び出された林少佐の部下たちは、戦闘機パイロットから航空機整備兵、通信兵など当時の航空技術の最先端を行く技術者集団であった

八路軍司令部には、後に毛沢東から国家主席後継者に指名された総司令官林彪(りんぴょう)(後に反逆者と断罪され、ソ連に亡命する飛行機の墜落事故で死亡)、伍修権(ごしゅうけん)参謀長、共産党中央東北局書記彭真(ほうしん)など大物がずらりと顔を揃え林に対して共産党軍の空軍創設を要請した

国民党との内戦を進める八路軍に航空戦力は皆無で、アメリカ製の高性能作戦機を多数保有する国民党軍の、空からの攻撃にはまったくの無力であったそのため戦局を有利に展開させるには近代的な空軍が必要であったのだ

林少佐には、つい最近まで戦っていた敵軍に協力することは想定外であった。また軍人として「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という、戦陣訓の一節が重くのしかかっていたしかし、300人の部下の命を守る使命もある。支配者の庇護を受けなければ、生きて帰国もできないことから、林少佐は「捕虜扱いにはしない」「日本人の生活習慣を考慮する」「家族と暮らすことを保証し、独身者の結婚を認める」という条件を付けた

八路軍がこの条件を飲めば部下に諮り、部隊の過半数の賛同が得られれば協力することを申し入れた。この顛末については、NHKのドキュメンタリー番組で、林少佐の元部下中西隆氏がインタビューを受けていた。

部下の中には、とにかく軍隊を離れて除隊したい者、一刻も早く帰国を考える者などの反対が39名、自決1名を出したが、過半数の賛成を得たのである共産党の彭真書記から、条件が整えばできるだけ速やかに帰国させるとの約束を取り付けたことも彼の希望の一つであったようだ

隊員たちは旧日本軍の飛行場から、破棄された飛行機と部品をかき集めた日本軍は撤退する時には、飛行機を徹底的に破壊していた。そのため、最新鋭の米軍機を運用している国民党軍は、飛行場に放置された旧日本軍のスクラップには関心を示さず、手付かずのままだった彼らはそれらの部品を大量に手に入れ、使える部品を組み立て、日本陸軍が開発していた九九式高等練習機を作り上げたのである

この練習機で八路軍の兵隊を訓練するようになったが飛行機に触ったこともない訓練生ばかりで、航空工学の一から教えねばならなかった整備士養成も同様で、エンジンの仕組みから教えねばならず、言葉の壁で微妙なニュアンスがなかなか伝わらなかった

 1948年になると八路軍が優勢となり、11月の満州での国民党軍との戦いは八路軍の勝利で終わったこの頃、国民党軍に留用されていた日本人は、アメリカの仲介ですでに帰国していたが八路軍は留用日本人を手放さなかった一つは冷戦で日本との国交が途絶えたこともあるが、何よりも国民党軍追撃に軍と移動する医療従事者や、さまざまな分野の技術者が必要であり、八路軍だけではそれを賄いきれなかったことにある加えて、日本の技術者が優秀であったことも挙げられるだろう

林少佐らの飛行隊では当初は日本兵から訓練を受けることに反発していた中国兵も多かったが、日本将兵たちの熱心な指導ぶりにやがて打ち解けるようになり、パイロット養成が進んでいった

1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門広場に集まった30万人を前に、高らかに中華人民共和国建国を宣言その直後、人民解放軍の赤い星のマークを付けた九九式高等練習機の編隊が上空に現れ、毛沢東をはじめ広場の群衆は空を見上げて大歓声を上げた。  パイロットの養成は、国民党との戦闘には間に合わなかったが天安門の建国記念式典までには100人を養成しており、編隊飛行で空軍の存在をアピールしたのである

その後、飛行隊は中国各地の記念式典に参加し、その存在を全国民の間に周知させた。  留用日本人から訓練を受けたパイロットたちは各地で教官となり、その後に勃発した朝鮮戦争では、ソ連製のミグ19ジェット戦闘機を操り、米軍との実戦に参加したのだ

日本赤十字が留用日本人の帰国へ向けて行動

 天安門のパレードの後、林少佐たちは任務を果たしたとして、約束通り帰国させるように要請したところが、中華人民共和国自体が日本も含めた西側に承認されておらず、日本との国交もなかった。さらには朝鮮戦争の勃発で、帰国はますます困難な状態であった。その上、当時中国政府は国内開発に留用日本人を利用する計画を持っていた

1950年10月、800人の元満鉄職員とその家族が西に連れて行かれた甘粛省(かんしゅくしょう)の天水から蘭州(らんしゅう)まで約350キロメートルの鉄道建設に従事させるためである約300人の元満州鉄道の技術者たちは、設計、測量から建設まで立ち合い、1952年10月、予定より8ヵ月も早く2年余りで完成させた
この鉄道は西方からの石油輸送に使われ、中国のエネルギー政策に貢献するが宿舎は土をくり抜いたような部屋で電気もなく、サソリが這い回るような環境であったという

一方、日本国内では、留用者帰国の動きも始まっていた。1950年10月、モナコのモンテカルロで開催された国際赤十字第21回連盟理事会で、日本赤十字社長島津忠承(しまづただつぐ)が、中国から帰国しない看護婦のことを採り上げ、中国の紅十字会の代表李徳全(りとくぜん)女史に協力を求めたさらに1952年6月、高良(こうら)とみ参院議員が上海を訪れ、当時上海で留用日本人として働いていた日赤看護婦に面会調査を行なった結果半年後に中国は、日本政府が船を派遣すれば日本人の帰国に協力すると北京放送で発表した

これを受けて、1953年1月26日には、島津日赤社長を団長とする代表団が北京に派遣された。しかし、日本政府は、シベリア抑留者が帰国した時、赤旗を振りながら労働歌「インターナショナル」を歌い、後に労働運動など左翼活動に参加する者も多数いたことから留用日本人の中に共産思想に洗脳された者の存在を警戒していた

そのため日本政府は島津に対して、帰国する留用日本人の中に、もし不穏分子がいる場合には、強制的に送り返すことを条件にして、受け入れを承諾するように指示していたのである当然だが、これが交渉の焦点となった

1953年3月4日が交渉期限とされていたが、島津は日本政府の明確な承認がないまま、3月5日午後4時、独自の決断で調印これによって終戦から実に7年7ヵ月ぶりの、1953年3月から留用日本人の帰国第一陣が出発。以降、1958年まで帰国事業が続いたが留用日本人のうち200人が内戦や事故で帰らぬ人となっていた

なお、今回の記事内容については、7月16日発売の拙著『日本人だけが知らない「終戦」の真実』(SB新書)でもふれている。あわせてご一読いただきたい。

参考 SBクリエイティブonline 2015.07.16

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