中国で史書に記された「倭人」とは?

中国の歴史書には古代日本の姿が描かれている「魏志倭人伝」もそのひとつである魏は倭の女王・卑弥呼に使いを寄こすなど厚遇したと記されているが、その理由は何だったのか争乱に沸いた時代背景や、倭の「貢ぎ物」の記録を読み解き、古代日本と中国の関係を明らかにする

日本と中国の交易は紀元前に始まった

最も古い日本人の記録は、古代中国の史書『漢書(かんじょ)』地理志にある「楽浪(らくろう)の海中に倭人(わじん)がいた」との記述であるこの楽浪郡は紀元前108年に漢の武帝(ぶてい)が設置したもので、現在の北朝鮮平壌(ピョンヤン)あたりにあった

倭人はの楽浪郡をつうじて漢の都の長安に朝貢(ちょうこう)(王朝に貢物(くもつ)を捧げ、代わりに恩賜(おんし)を受ける交易)を行っていたその見返り品であろうか、北九州地域の遺跡では、前漢・後漢時代の鏡や貨幣、鐶頭大刀(かんとうたち)、楽浪土器など、漢代文化の産物が出土している

そのうち、福岡県糸島市の三雲(みくも)一号甕棺墓(かめかんぼ)からはガラス璧(へき)、金銅四葉座金具(こんどうしようざかなぐ)(木棺飾り)が出土しているこれらは楽浪郡から伊都(いと)国の王に葬具として下賜(かし)されたと推定されている伊都国王の帥升(すいしょう)を首長とする倭国は107年、漢の安帝に生口(せいこう)(貢物の人間)160人を朝貢したと『後漢書(ごかんじょ)』東夷(とうい)列伝にある帥升は、卑弥呼が共立される前代の倭国王で「其の国、本亦、男子を以て王と為す」と魏志倭人伝に記された王とされる(西嶋定生『倭国の出現』東京大学出版会)。

後漢末の三国時代を記した史書『三国志(さんごくし)』魏志には倭の女王卑弥呼が記述されるいわゆる「魏志倭人伝」だが、正式には『三国志』巻三十烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんぴとういでん)の倭人条のことである烏丸・鮮卑は中国北部、東夷は朝鮮半島以東にいた異民族を意味する当時の中国と日本の関係を読み解くには、魏志倭人伝だけではなく東夷伝全体の解釈が必要である

その東夷伝の序文には王都・洛陽(らくよう)を中心に周辺諸国までを朝貢国とし万里を服従させたという魏の天下観念が記される。そして、魏の東方政略にかかわる歴史過程がつづられている

この中に238年、中国北東部の遼東(りょうとう)を支配した公孫(こうそん)氏を討伐した経緯が記されるこれで東夷は屈服して、魏の支配下に入ったという倭はそれまで公孫氏と交易していたが、その滅亡とともに魏に朝貢したのだった239年には、倭の女王に「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印紫綬(きんいんしじゅ)が与えられた

さらに魏は朝鮮半島北東部の高句麗(こうくり)を討伐した極遠の地まで追いつめたため、東夷諸国の掟や風俗、国の大きさなどが知られるようになったというこの高句麗戦争のさなかの245年、倭に黄幢(こうどう)(軍旗)が授けられた

序文の終わりに、「四方の異民族の間に礼をもとめるということも、実際にありえよう」とある。「礼のある国々」のなかに、倭がふくまれているのは間違いない魏が「親魏倭王」の称号を与えた理由は、この礼に報いるためであるが、もうひとつ東方戦略にくみこむ目的もあったと考えられる

文/東 潮

BEST TIMES2016.04.26

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